ぽちぶろぐ

真田氏、万年筆、灯台など興味あることを徒然に書いてみます。

山家神社新嘗祭

 本日は新嘗祭、真田町の山家神社・真田神社に行って参りました。

そのときにいただいた御朱印がこれ!

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羽のところに六文銭があります。

先日、動画で紹介しましたが、山家神社は真田氏が代々、信仰している真田の鎮守さまです。新嘗祭はその土地の収穫祭なので、山家神社守人(真田住民の方)のお祭りです。社内にて厳かに執り行われました。ボクはまあ、県外の守人のようなものですから、外から温かく見守りました。同じく真田町以外の守人の方も見学です。いずれ、真田町に住めたらいいね、と話していました。今日は外に立っていたら、足下から冷気が上がってくるのか、寒くて凍えました。が、守人会長さまから暖かい粕汁と焼き芋をいただき、暖を取ることができました。山家神社・眞田神社の枯れ葉を集めて焼いた焼き芋は最高に甘く美味でした。会長、ありがとうございました!

 それから、新嘗祭を期に、信綱公もお祀りすることになりました。

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 もともと、父君である昌幸公と連名で山家神社への寄進をされていた記録があり、縁は深かったのですが、真田神社を建立する折には入っていなかったようですね。真田町にはそのものずばり!、の信綱寺(しんこうじ)がありますので、真田町とは縁もゆかりもありますよね。あーでも、次男の昌輝公も一緒にお祀りしてほしいなあ。長篠の信綱公・昌輝公の供養碑は同じ石柱にご両名のお名前が掘られていますし。

真田神社御祭神の御朱印

 さて、昨日真田神社の御朱印を紹介しましたので、真田神社に祀られている真田氏の御朱印を紹介しておきましょう!

 まずは真田氏中興の祖、幸綱公から。前にも説明しましたが、御祭神のお名前は奉じられた際のものですので、「幸綱」ではなく「幸隆」となっています。幸綱公の諱がいつから幸隆公となったのか、謎のままです。

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最近、信繁(幸村)公よりも人気があるかもしれない、上田城初代城主の昌幸公です。「表裏卑興」っぷりがすっかり定着した草刈正雄さんの昌幸公はボクのイメージでは一番しっくりしていると思っています。

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苦労性のお兄ちゃん、信幸公です。「真田丸」では改名させられたことになっていましたが、実際には徳川への忠義を示すため自ら改名したとされています。「真田丸」では家康の老獪さ(いやらしさ?)を強調するためなのか、家康の命令ということになっていましたが、どうなんでしょう? しかし、身内に敵対する、しかも最も手こずらせた親子なのに、しっかりと真田家を守り通した信幸公の手腕は昌幸に勝るとも劣らずではないか、と思います。弟に比べてやたらと誠実さが強調されているようですが、強かさは弟以上でなければ、あんな古狸連中を相手に立ち向かうなど到底できないことでしょう。

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戦国時代の幕を引くヒーロー(?)、ご存じ真田幸村公です。

『日ノ本一の兵』と呼んだのは薩摩藩藩主島津忠恒です。フルで言うと、「真田日本一の兵、古よりの物語にもこれなき由」(『旧記雑録』慶長20年(1615年)6月11日条)。また細川忠興にも「古今これなき大手柄」と賞されました。なんのかんの言っても、ボクが最初に真田氏に惹かれたのはやっぱり「幸村公」でしょう。主君を守ろうとして殉じた武将というのはやはり日本人のDNAに強く訴えるものがあるのでしょう。江戸時代の戯曲を通してドラマチックに脚色されすぎていますが、心惹かれてやまない人物です。それに、徳川への当てつけとかいろいろ言われていますが、島津氏や細川氏が激賞するということは、それだけのことを示していると思います。島津氏や細川氏が評したときは脚色がまだなされていなかった時期と思いますから。

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真田神社御朱印

 本日の御朱印は本家本元、真田町の真田神社です!!

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本ブログ「はじめに」でも書きましたが、真田町の真田神社は御朱印の通り、「真」字の横に縦棒があります。『真田』家の正式な漢字はこちらが正しいです。

以前はこちらの神社でも『眞田』と書かれていたことがありましたが、修正されたのですね。平成27年の御朱印をお持ちの方は字が違っていると思いますよ。

 真田三代を祀った神社は基本的にはここだけです。上田城の眞田神社もまた紹介しますが、眞田神社はもともとは松平神社(『しょうへいじんじゃ』と読みます)でした。上田城は江戸時代のほとんどが真田ではなく松平家の城だったんですね。その関係で松平神社だったのです。また詳しく説明します。あっ、真田の神社は真田庵にある真田地主大明神の方が古いか。

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 で、本題の真田町の真田神社ですが、真田町(当時は真田村)住民による発願で神社庁から許可を得た後、明治21年10月15日に創建されました。御祭神は真田幸隆公、真田昌幸公、真田信之公、真田幸村公です。現在は山家神社の境内にありますが、もともとは別のところに建てられました。その後、火事で焼失しましたが再建され、荘厳な社頭であったようです。しかしその後、段々と廃れてきて荒れるがままになっていたのを嘆き、現在の山家神社境内にご遷座されました。山家神社については改めてご紹介いたします。

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お気付きの方もいらっしゃると思いますが、幸隆公は本来は『幸綱』、幸村公は『信繁』ですが、有志によって御祭神とされたとき『幸綱』・『幸村』でしたので、こちらではそれに統一されています。信之公が本来の『信幸』になっているところが興味深いですね。真田の人にとっては『信幸』なのでしょう。神紋は当然六文銭です。

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昭和24年に本殿が建設されたのを機に、西南・日清・日露戦争満州支那事変・太平洋戦争等国家公共に尽した長村内149柱の英霊も合祀されています。

 

山家神社のすばらしい動画がありますのでリンクしておきます。

youtu.be

ボクはここが非常に好きで、ワクワクするのと同時に妙に落ち着きますので、何度も訪れています。盛夏に大きな木の下に置かれたベンチにゆっくり座っていると、ひにゃりした自然の風が吹き抜けて心地よいです。今現在は寒風厳しくなっていますがw

 

鎮座地:上田市真田町長真田4473

 

志紀長吉神社御朱印

 本日は大阪市にある志紀長吉神社の御朱印です。

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志紀長吉神社と真田信繁公との関わりは大坂夏の陣にあります。夏の陣は誉田、道明寺の戦いなど、大阪南方の地で繰り広げられた局地戦の総称のようなものですが、その道明寺の戦い後、大阪城方面へ撤退する途中で志紀長吉神社に立ち寄り、日蔭明神に戦勝を祈願して刀と軍旗を奉納したとか。信繁の刀や槍などの武具はほとんど伝わっていないため、ここに奉納されたものが残っていれば・・・、というところですが、残念ながら戦後GHQに接収されたようです。信繁の刀は他にもう一本あるようですが、確定はしていないようです。勝ち残っていたら、本多忠勝の槍、蜻蛉切のように残っていたかもしれません。名のある刀は戦いの中で失われたり、火災で焼失したり、戦争で失われたりと悲劇的な末路を辿ることが多いようです。敗戦の武将の刀だったら余計に残らないでしょうね。だからここにあったらよかったのですが・・・。できれば信繁公愛用の刀や槍が見たかった・・・。

 お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、これまで紹介した御朱印は主に信繁公が大坂・九度山に滞在した場所にゆかりがあり、かつ御朱印に六文銭が押印されているものです。他に三光神社と最近では心眼寺の御朱印にも押されるようになりました。

 戦国武将ゆかりの御朱印としては真田氏はかなり多い方でしょう。戦国大名よりも多いかも。それだけ有名な武将だったということでしょうか。ちょうど大河ドラマであちこち「ゆかりの地」を名乗り、少しでも関係のあったところは真田幸村(あえて”幸村”と称しています)に「ちなんだ」御朱印が出てきたところでしょう。志紀長吉神社も幸村公の参拝を受けていますが、本来、参拝者という以外の関連性はなく、徳川政権時代は奉納された刀や軍旗はひた隠しにしていたのかも。この辺の詳細はわかりませんが、兄である信之公が松代の菩提寺に信繁公の慰霊碑を建てることもできずにいたということから考えると、そうそう公にはできなかったと思われます。のちにまた書きたいと思いますが、少なくとも徳川時代の信繁の墓と言われているものとして、竜安寺の塔頭大珠院内にある弁天島(鏡容池にある)に信繁の七女おかねが立てた墓があります。これは信繁の墓というよりは妻である竹林院の墓を建てるときに信繁・竹林院夫婦の墓として建てたというべきでしょう。他には白石市にある田村家墓所に銘もない自然石の墓石があり、これが信繁の墓と言われています。伊達家臣であった田村家に嫁いだ阿菖蒲の墓の隣に父である信繁の墓を置いたのでしょう。ただ徳川政権では信繁は「大罪人」であったため、銘を刻むのがはばかられたようです。また、長野市の典厩寺にも銘のない小さな自然石の慰霊碑があり、これが信繁公の慰霊碑と言われています。典厩寺は武田信玄の弟武田典厩信繁を弔うために建てられた寺で、信繁という名前は武田信繁公を慕う父、昌幸があやかって自分の次男にその名を付けたと言われています。そういう縁か、いつしか真田信繁公の慰霊碑がひっそりと建てられた、とされています。典厩寺の碑は案内も何もないので、あまり知られてはいないようですね。さらに、亀田藩に嫁いだ四女のお田の方が由利本荘市の妙慶寺に一族の墓を建立しています。

  今のところ、これら以外の墓や碑は明治になってからかもしくは創作的に作られたものであるようです。江戸時代に幸村公を題材とした難波物語など多数の創作物ができましたが、そういった創作物の延長であるもののようです。それでも案外事実が眠っているのかもしれませんが。実はそういった少々事実関係があやふやなところにも足を運んで「幸村公墓」に手を合わせてきています。そちらもそのうち御朱印も含めて紹介する予定です。

 

蓮華定院御朱印

真田昌幸・信繁親子が蟄居していた九度山にある善名称院の御朱印を紹介しましたので、次は高野山にある蓮華定院の御朱印をご

紹介します。

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 昌幸公・信繁公は高野山蓮華定院に幽閉される予定でした。蓮華定院は真田家の高野山での宿坊でした。もともと、蓮華定院は小県の豪族が宿坊契約をしていたという縁もあって真田氏も宿坊としたのでしょう。後に信之公は蓮華定院を松代藩高野山菩提寺としました。しかし、昌幸・信繁親子は蓮華定院にいったん入ったものの、すぐに高野山の入り口(登山口?)に当たる九度山に居を移します。この理由には諸説あり、信繁が妻や側室を伴っており、女人禁制である高野山に入れなかった、高野山があまりに寒くてとても耐えられなかったなど、いろいろと取りざたされていますが、一般には前者であると考えられているようです。ちょっと不思議というか、徳川家にとって流罪人である二人にそれで便宜を図ってくれるというのは意外な感じもします。寒さ云々は真田出身の二人が果たして高野山で寒さに耐えられないと思うのか、少々疑問な気がします。真田は冬場はかなり寒く、けっこう雪も降りますから、高野山とそれほど条件が違うとも思えませんしね。

 ともかく、九度山に蟄居することとなったのですが、蓮華定院とは山の上と下という距離で、信繁公が蓮華定院に行くこともあったようです。和尚と碁を指していたとか。蓮華定院には信繁公の手紙(模写)なども展示されています。蓮華定院は現在でも宿坊ですので、予約して宿泊することもできます。観光だけで訪れても内部を拝見することはできませんので、中を見てみたい方はぜひ宿泊してみてはいかがでしょうか。ちなみに御朱印は宿泊しなくても書いていただけました。ボクは宿泊したときと宿泊せず単に訪問だけのときとどちらでも御朱印をいただきました。上の御朱印は訪問だけのときのものです。あ、どっちの場合も同じ御朱印ですよ。

 宿泊すると、夕食時に蓮華定院や高野山に関するお話、真田氏に関するお話があります。ただ、これは食事しながら聞いてくれと言われましたが、人(しかも僧院の人!)が話しているのに、しかも畳の上に膳を置いたスタイルで正座した方が話されているのに、食事はしにくいですよねえ・・・。

真田庵(善名称院)御朱印

通称、真田庵善名称院の御朱印です。

 真田昌幸、信繁親子が関ヶ原の戦い後に家康に蟄居を命じられ幽閉された地である和歌山県九度山にあります。意外かもしれませんが、善名称院は尼寺です。敷地には昌幸公墓があります。昌幸公の墓はここ以外に真田町の真田氏菩提寺である長谷寺にもあります。(長谷寺についてはまた後日)

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善名称院は尼さんお一人で守っておられます。ですので、対応できない時間や日がありますので、失礼のないように御朱印をいただきましょう。なかなか厳しい方なので、御朱印をもらう前にきちんとお参りし、雰囲気を壊すような振る舞いは慎む方がよいでしょう。愚痴のようなお説教をいただくことがありますが、ボクは含蓄に富んだ話が多いと思います。あっ、そうそう、御朱印をいただく際には御朱印帳に挟んだままの紙(朱印移り防止用の紙)は必ず取り除きましょう。ずっと挟んだままにしておくものではない、と注意を受けます。

 九度山は信繁公にとってもっとも長い時間を過ごした地でもありました。真田や上田の方が滞在期間としては短いんですよね。次男坊の宿命か、幼い頃からあちこちに人質となって出ているので、結果として大坂や九度山の暮らしの方が長くなった。大河ドラマでは信幸が長男の苦労を嘆いていたけど、信繁もたいがい苦労したんでしょうね。ただし、信繁は真田庵に居住していたわけではなく、すぐ近くに家を建ててそちらで暮らしていたことが近年の学術調査でわかっています。真田庵は蟄居中の真田屋敷、父である昌幸の居館でした。昌幸没後、たたりがあったとかで真田庵敷地には昌幸を祀った真田地主大権現があります。真田地主大権現は真田三代と毘沙門天の合祀です。

 写真も含め、また改めて真田庵自体の紹介をしたいと思います。

安居神社御朱印

さて、真田氏を訪ねる旅、と言えば誰もが上田市、真田町を思い浮かべるでしょうし、ボクも非常によく訪れているおなじみの場所です。しかし、ここはあえて後ろから行ってみましょう!

 と言っても、真田信繁の最期からですが。

 ちょうど今年(2016年)の大河ドラマでクライマックスに迫っている時期ですから、信繁(幸村)最期の地の御朱印から紹介しましょう。実はボクの御朱印旅もここがスタートです。初の御朱印帳もこちらで買い求めました。オリジナルの御朱印帳があるかと期待しましたが・・・。この時点で真田関連(六文銭や結び雁金などの家紋入りとか)の御朱印帳があったのは後に紹介する松代町長國寺と上田城にある眞田神社だけでした。出かけられていた宮司さんが戻ってこられたので、無事にいただくことができました。 

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 真田ファン歴の方が御朱印歴よりもずっと古いのですが、あるとき、「せっかくゆかりのお寺や神社を巡っているんだから、真田氏ゆかりの地の御朱印ももらったら、いい記念になるのでは?」とふと思い立ち、ちょうど安居神社を訪問しようとしていたときだったので、御朱印スタートは安居神社となりました。

  安居神社はもともとは信繁とは何の縁もないところでしたが、元和元年(1615年)5月6,7日、大坂夏の陣で信繁が徳川家康の陣に三度まで突撃し、家康に自決まで覚悟させるほどに迫ったが、多勢に無勢、押し返され、安居神社で休んでいたところを松平忠直隊鉄砲組頭の西尾仁左衛門宗次に討たれたとのことです。信繁は「儂の首を取って手柄とせよ」と言ったとか。しかし実際は安居神社で休んでいた信繁隊を襲撃し、雑兵と共に討たれ、それが有名な信繁だとは気づかれなかった、という説もあります。前者はあまりに劇画的で、いかにも戦国武将の最期っぽい台詞であることから、後日の物語から生まれた逸話でしょう。だいたい写真とかが発達した時代でもなかったわけですし、有名だったとしても信繁本人の顔を知っているわけもないですからね。首実検の時に信繁の叔父である真田信伊も信繁の首を見てもそれが自分の甥だとわからなかったようです。まあ、九度山に15年も幽閉されて顔を合わせていなかったのですからわからなくても当然ですよね。それに刎ねられた首だけだったら顔も生前とはだいぶ違うでしょうし。

 大阪に行くと必ず寄る安居神社ですが、ここに来るといつも胸と目頭が熱くなります。神社の境内には亡くなったとされる一本松の下に有志による信繁像があります。

(安居神社関連の写真は後日アップします)

像の手に触れると、この地まで生きた信繁公に対面したような気になります。信繁公最期の地ですが、お好きな方には是非訪れていただきたい場所です。

 

 

はじめに・・・。

さて、ブログでも始めてみるか、と登録したはいいが、どうしようかと考えている間にだいぶ日が経ってしまいました。

とりあえず、挨拶くらい書いておこうかな。

 

ここで取り上げるのはたぶん、

  • 真田関連・・・ご存じ戦国武将『真田氏』。2016年NHK大河ドラマ真田丸』で一気に知名度が上がりましたが、ボクのもっとも好きな武将です。有名なのは幸村こと真田信繁ですが、その祖父の幸綱から始まる信綱、昌輝、昌幸、信幸、信繁といった真田三代まとめて好きなんですね。真田氏に関係する御朱印を集めていますので、その紹介もしたいなあ。
  • 万年筆・・・Pelikanをはじめとする各種万年筆、特に青軸の万年筆を愛好しています。これもねえ、今時万年筆!?と言われそうですが、昔から好きだったんですよ。筆記具としての利便性はボールペン等に負けそうですが、それを上回る味わいがあるのです。おいおい、手持ちの青軸万年筆を紹介できたら、と思っています。
  • 灯台・・・港や岬に建っている灯台です。「何でそんなのに興味があるの?」と良く聞かれますが、自分でもよくわかりません。好きになるのに理由がいるのか?、ってことで。あえて挙げるなら、明らかな人工物でありながら不思議と自然と調和するところ、でしょうか。
  • その他・・・旅行(灯台や真田関連が多い)、ダム、滝、犬(特に柴犬)などなど、興味のあるもの全般。とりとめもないことが多いと思います。

ですかね。

今年(2016年)は大河の影響が強く、各地で真田氏にちなんだイベントがあり、そのせいで出かけることが増えたような気がします。もともと大河よりもずっと前からの「真田ファン」なので、にわかのように言われることは不本意ですけどね。と言うか、「次の大河は真田氏で!」という上田市の署名活動で署名した(2013年頃?)ことがあるので、「真田丸」が実現したのはワタシの署名がごくわずかにでも効果があったのでは?、と思っています。人気が出るのは結構なことですが、大河が終わると一気に冷めてしまいそうで、その反動が怖いところです。今は上田も観光客が非常に多く、市内各所で渋滞してますからねえ。ボクは上田市というよりも真田町の方が気に入っています。真田町も上田市なんですけど、10年ほど前(2006年)に上田市と合併したんですが、やっぱりなんとなく雰囲気が違う気がします。これもおいおい紹介するつもりですが、真田氏を感じるなら、やはり発祥の地である真田町の方が興味深いと思いますね。

(上田を否定しているわけではありませぬ)

 写真は真田町山家神社にある真田神社です。御神体として真田幸隆公、真田昌幸公、真田信幸公、真田幸村公が祀られています。史実では「幸隆」ではなく「幸綱」、「幸村」ではなく「信繁」であるとのことですが、真偽はともかく、真田神社は真田町の人々が真田氏を祀ったときに「幸隆」公、「幸村」公として祀ったために、それを尊重して幸隆公、幸村公としているとのこと。いろいろと歴史を感じますね。屋根の寺紋の六文銭(六連銭とも)が輝いています。

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ちなみに、真田神社は眞田ではなく真田、正しくは真の左側に縦棒あり、つまり真の上側が”直”のようになっているとのことです。

(出典:山家神社真田神社ツイッター2016年10月23日@YAMAGA_JINJA

それでは、今回はここまで。