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ぽちぶろぐ

真田氏、万年筆、灯台など興味あることを徒然に書いてみます。

『真田丸』に建つ 心眼寺御朱印

真田氏 真田氏御朱印 真田丸 関西地区

 さて、最近の研究で真田丸が実際にどのようなものか少しずつ解明されてきました。これだけ有名な出城だったわけですから、数多くのいろいろな文献に記されています。が、どれも半月形の砦だという記述ばかりで、具体的な構造が明確ではなかったのです。この形状には訳(というか、背景)があり、武田信玄が築城の際に好んで用いた丸馬出をそっくりそのまま巨大化させたような構造だと考えられたのです。大坂城も巨大だからその丸馬出も巨大だったという発想でしょうか。信繁(幸村)公の父である昌幸は築城の名人として知られており、その築城技術は山本勘助や信玄の薫陶を受けたことがわかっています。なので、その息子である信繁も父の影響から丸馬出にしたのだろうという推量だった可能性が高いのです。というのも、真田丸はそれ自体がかなり大規模な独立した城と呼んでも差し支えないほど大きく、それにほぼ完璧に徳川軍は撃退されていたので、真田丸の内外部の詳細はわかっていなかったのです。和議が結ばれると、真っ先に真田丸は取り壊されます。ドラマでは徳川軍が徹底的に壊した、とありますが、一説には信繁自ら壊した、という説もあります。真田丸の構造を家康に知られたくなかったためとされ、僕はこっちの説の方がしっくりくるような気がします。どちらにしても真田丸は完全に取り壊されてしまったために、漠然としたイメージしか伝わっていなかったのでしょう。しかし、最近、『極秘諸国城図』(松江歴史館)という古文書が見つかり、その中に真田丸もかなり正確に記述されていました。この中に”寺”として記載があったのが今回紹介する心眼寺です。

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真田丸があった辺りは現在では真田山という地名で呼ばれる、小高くなった一帯です。そこに今回紹介する心眼寺、その南の興徳寺、大應寺が並んでいて、発見された絵図とよく一致しています。よって現在ではこの心眼寺の辺りに真田丸があったと考えられるように変わってきました。心眼寺の山号も真田山です。

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入り口山門の前には真田丸跡であることを示す碑が建っています。

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門扉には六文銭。『真田丸』のオープニングに出てきそうな立派な六文銭です。

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門から本堂を見たところです。

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門をくぐった左手には信繁公の『墓』があります。この墓はつい最近、2015年の没後400年(1615年5月7日没)を記念して建てられたものです。真田丸跡の碑には「幸村」と書いてあったのにこちらは信繁、しかも豊臣性。うーん、どっちかに統一した方がいいんでない?

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心眼寺自体は大坂の陣以後に創建立された寺で、信繁・大助親子の冥福を祈るために創建されました。なので寺紋も六文銭です。

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心眼寺坂と呼ばれる坂を下側から撮影しました。方向で言うと大坂城側(北側)から南に向いて取ったところ。大きな千手観音(大應寺)の手前が心眼寺です。右側の白い建物は大坂明星学院です。つまり僕が撮影時に建っていたところは真田丸大坂城惣構えと真田丸との間の堀跡ということになります。心眼寺は僕から見ると高台になっていることがわかると思います。

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同じ場所で左側、つまり東向きに撮ったところです。5mくらいある高台の上に心眼寺の墓地があります。これが大坂の陣当時の地形の名残とすると、心眼寺坂は大坂城真田丸との連絡通路ということになります。

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心眼寺坂を少し登ると心眼寺の入り口に到達します。なるほど、400年もまえのことですが、存外地形は残っているものです。実はこれを検証したのはもう1年くらい前ですが、先日(2016年11月12日、#54「大坂城真田丸スペシャル~大坂城はなぜ難攻不落?~」)、『ブラタモリ』でも同様の検証が紹介されていました。

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心眼寺から道を挟んで向かい側に真田丸の顕彰碑が建っています。最近、建立されたようです。

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顕彰碑に掲載された地図です。赤丸で囲まれた辺りが顕彰碑を中心とした円です。「真田出丸跡」と書かれている辺りが現在の明星学院になります。道を挟んで文字が並んだ辺りが心眼寺や大應寺があるところです。真ん中の道は僕が心眼寺坂を撮影していた道です。こうしてみると、本当に現在の地形とよく一致してますよね。この辺に真田丸があって、信繁公や大助公が闊歩していたかと思うと実に感慨深いですね。

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心眼寺

山号 真田山

本尊 阿弥陀仏座像

住所 大阪市天王寺区餌差町2番22号

『真田丸』終了記念 安居神社

真田氏 関西地区 真田丸

 真田ロス、になるかと思ったんですが、意外とすんなりと受け入れられています。まあ結末はわかっていたし、どう表現されるか、という視点で見てしまったからかもしれません。ドラマ中では幸村が佐助と最後を迎えたところは神社であることははっきりしていました。明らかに安居神社を意識しています(当たり前かw)。セットの関係でしょうか、少し狭い感じでしたが、実際の安居神社は大きな神社ではありませんが、それなりの広さを有しています。

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安居神社の参道は松屋町筋に面しています。周辺はすっかり宅地となっていますが、当時はもっとひっそりした神社だったのでしょう。

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参道を進むと神社へ登る山道に。この門は16時まで解放されています。

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階段を登り切ると安居神社の境内に出ます。正面から見たのが一枚目の写真です。

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以前もちらっと紹介しましたが、安居神社は主祭神少彦名神菅原道真公です。もともとは少彦名神のみだったのですが、菅原道真公が左遷されて都落ちになる際、ここに立ち寄って休まれた、という縁から奉祀されたとのこと。少彦名神も医術・薬学の神様ですので、学問の神となった道真公とは相性がよかったのかもしれません。安居神社は安井神社とも書くのですが、道真公が安んじて居たという故事から安居となったという話もありますが、はっきりしないようです。

 そして安居神社の境内には・・・、

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『幸村公討ち死にの地』があります。ここでは信繁公ではなく幸村公としておきます。

もうこの辺からやばい・・・。

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酒好きだった幸村公にたくさんの日本酒が供えられています。実際は酒でも焼酎好きであったことが文献から明らかになっています。

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そして碑の横には有志による幸村公の像が置かれています。安居神社の松の根元で休息されているところを象ったものとのこと。

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碑と像の後ろには『さなだ松』という札の立てられた古い松があります。そう、この松にもたれるように幸村公が休んでおられたのです。松の後ろには年中青白の浅黄幕が掲げられています。浅黄幕(青白幕)は仏教の鯨幕に当たり、神道の葬儀などの折に使われます。年中、幸村公の最期を悼んでいるわけです。もうこの辺でティッシュとハンカチのお世話になっています。地面をそっと触れてみました。

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幸村公の像は姿絵からすると凜々しいですが、他の二枚目で背の高い像などと比べるとかなり実際の背格好に近いと思います。前に立って像を見つめると、400年の時を超えて幸村公に対面しているようです。手甲の六文銭に触れ、膝に手を当ててみます。この像は「どうぞ、触れてください」となっていますので、誰もが触れるのでしょう、手や膝はつるつるしていました。

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しばし、幸村公と対面していました。夏に訪問したときにはじっとしているだけでも汗が噴き出すような暑さだったのに、なぜか、しん、とした閑かさがあります。蝉しぐれの中なのに、不思議な気分です。ここに来ると、嬉しくて哀しくて、そして去りがたい気分になります。

 後ろ髪を引かれつつ、安居神社を後にしました。

 

今は『真田丸』のおかげでかなり参拝客も増えたようです。僕はちゃんと参道を登ってきましたが、国道25号線側、ちょうど道を挟んで一心寺の向かい辺りから境内に入ることができます。こっちは高低差がなく、楽に参拝できますが、やはり参道を上がってほしいですね。

 

『真田丸』最終回を見て

真田氏 真田丸

 日曜日は仕事のため、放送時刻に見られませんでしたが、月曜に拝見できました。

www.nhk.or.jpもうずーっと涙が溢れてしょうがなかったんです。

ティッシュの山ができたw

細かいストーリーに、「なんでやねん!」と言いたくなることもありましたが、泣けてきましたね。

さてさて、なんでそんなに涙を流すようなことだったかというと・・・。

 

まずは幸村と三十郎との惜別。

三十郎が押し寄せてきた幸村隊に、無謀にも信政がへっぴり腰で突っ込もうとしたのを押しとどめ、隊の先頭に幸村(三十郎には信繁かな)を認めると、いっぺんにいろんな感情が湧き出したのか、槍を取り、馬上の信繁目がけて突きかかります。信繁は軽くいなして三十郎を押し倒すと、

「小物にはかまうな!」

と下知して颯爽と去ってゆきます。三十郎は倒れたまま、涙ながらに信繁の後ろ姿を見つめ続けました。三十郎は真田家家臣の中では最も好きなのですが、信繁の背中を涙を流して見つめる三十郎は間違いなくそのまま背中を追いかけついて行きたかったに違いありません。ここで涙が溢れてきます。真田隊にいた堀田作兵衛が三十郎に寄って来て肩を掴みます。お互い、信繁に付き従ってきたもの同士、通じるものがあったのでしょう。

 

それから堀田作兵衛。

家康を単騎追いかけようとする幸村から注意をそらすべく、

「こっちじゃあっ!」

と大声で叫び、両腕を大きく広げます。

その声につられて、幸村を狙っていた銃兵は一斉に作兵衛に発砲!

体の阿智庫にを銃弾に貫かれてよろめきますが、致命傷がなかったのか、そのまま敵に突っ込んでいきます。

作兵衛はそこで終わりか、と思ったのですが、場内で作兵衛が作っていた畑を踏み荒らす敵に逆上して蹴散らしたのですが、そこで力尽き、姪であるすへの行く末を案じながら畑の中に倒れ伏します。作兵衛にとってすへは自分の子供同然なのでしょう。

三十郎同様、真田の里から信繁に付き従い、九度山の15年間のブランクもはね除けて、信繁の元に参じた作兵衛。こう書いているだけでも思い出されて泣けてきますね。

 

 そして、高梨内記

昌幸がなくなった後、信繁と九度山に残った家臣は三人いたのですが、真田丸では内記のみが登場しています。きりの父親ですね。真田丸では信繁ときりとは精神的つながりだけで終わっていますが、実際は子供も生まれています。で、内記ですが、大助を城中奥の秀頼の所へ行かせると、自分は後から来る敵を防ぐために廊下に陣取ります。老齢もなんの、孤軍奮闘しますが、多勢に無勢、次々と押し寄せる敵にとうとう打ち倒されてしまいます。

廊下に大の字に倒れ、懐から昌幸の位牌を取り出して何かをつぶやきますが、そこで力尽きます。昌幸にこれからそちらへ行くと語りかけたのでしょう。信繁に大助の面倒を見るように言われてからはまるで孫の相手をするように嬉々として大助の相手をする内記だったから、大助の元には一兵も通さないという気持ちだったのかもしれません。

 

 部下が次々と倒され、幸村単騎で家康の元に向かいます。影のように従う佐助のみ。野原で座っている家康に本多正純が慌てふためいて幸村のことを注進します。

「またか!」

何度も何度も家康を阻み狙う幸村に心底うんざりしているのでしょう。でも、やはりここは、

「また真田か!」

と言ってほしかったなw 僕の真田丸的流行語は「だまれ、小童!」ではなく、

「また真田か!」

です。

幸村は馬上筒で家康を狙います。幸村が家康を銃で狙撃しようとしたことは史実のようです。近年、幸村が使用した馬上筒が発見され、確定的となりました。実際は馬上筒のトラブルで狙撃自体ができなかったようですが、もし発射されていたら、少なくとも歴史は多少は違っていたでしょう。ドラマでは無事に発砲はできたようです。二丁目の銃を家康に向けて構えると、部下達が家康の盾になるべく、家康と幸村の射線上に身を投じます。が、演出の関係でしょう、幸村の銃口は家康を捉えていますから、「盾になっとらんがな!」と思わず笑ってしまいました。

 その後、秀忠の介入もあって、幸村は撤退し、安居神社の境内と思われる場所で佐助と休息しています。雑兵と思われる兵が近づいてきて幸村を討ち取ろうとしますが、佐助と二人で返り討ちに。歴史書では福井の西尾氏に討たれたことになっていますが、実際には安居神社に押し寄せた敵兵に部下共々討ち取られ、屍をさらした、とされています。ただ、この説にはいささか疑問があって、幸村は他の雑兵とは明らかに格の違う装備をしていたはずで、それこそあの目立つ鹿角の兜を被るなり持っているなりしていたはずです。もちろん、甲冑や得物も立派だったはずで、賞金首の幸村をただ雑兵と同じように討ち取ってしまうのでしょうか?

 真田丸では佐助に介錯させて自害する直前で終わっています。

この辺、ちょっと矛盾と不満がありますね。

部下達はある意味、往生しているのに、幸村だけが自害を選ぶ、しかも散々、「あきらめなければ・・・」と言ってきたのに、まさに自己矛盾です。それからやはりちゃんと結論を付けてほしかった。

これもドラマの手法でしょうが、逃亡するにしろ、討ち死にするにしろ、この表現では部下達の方が立派に見えてしまいます。ネットなどの感想では概ね評価が高いようですが、僕には少々消化不良で残念でした。同じく、淀君や秀頼といった豊臣側の最期、そしてそれに従っていた大助の結末もぼやかしすぎでしょう。脚本家の三谷幸喜氏が言うように大河『ドラマ』なのですが、歴史を背景にしている以上、曖昧に終わらせるのはどうかと思います。ドラマ的にも部下の最期と比較して印象が乏しく思うのは僕だけでしょうか。

 

何にしても、1年間、50回の『真田丸』はこれで終了です。

毎週日曜日の楽しみがなくなりましたが、日曜20時にテレビを見るために部屋に戻らなくては、という強迫観念はなくなりました。もちろん録画していますが、同時性というのも大事でしょ?

残念が9割、ほっとしているが1割、かな?

これで真田町や上田、九度山、大坂、その他縁のあった地域も徐々に落ち着きを取り戻すでしょう。以前の『真田太平記』を知っている世代の方は冷静に捉えていると思います。日本人は割と熱しやすく冷めやすい民族だと思います。真田人気も一段落するかもしれません。僕は真田丸からのファンではないので、熱が引くことはなさそうです。

 

『真田丸』オープニングその② 備中松山城その②

真田丸

昨日の続き、備中松山城です。また後ほど紹介する竹田城も山頂にあり、霧に包まれた風景が幻想的ですが、この備中松山城もなかなかです。この城に雲海が掛かっているところを想像してみてください。

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さてさて、大手門を抜けて登っていきます。ここは真田丸のオープニング(OP)で城門が開くところで使われていますね。

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で、この上から大手門の方を見下ろしたところ。人が上がってこられたので、大手門の大きさがわかります。この上に櫓門があったわけですからねえ。上からの攻撃は半端ないです。

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大手門を上がり、さらにその上の段に上がります。ここまで送迎バスを下ろされた峠から急坂を1km弱ほど登って大手門に到達した後、 この階段続きはへとへとになりますね。皆さんお疲れモードw

興奮気味に写真をバシバシ撮っているボクは疲れているんですけど、興奮が疲れを上回っていたのか、大して疲れていません。

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この辺で雰囲気が変わったのを感じます。いよいよか!?

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来たーっ!!

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大手門から上がってきて広場の向こうについに天守閣が見えてきました。

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外から見上げると、天守の位置は高いですが、天守自身は二層っぽいですね。この上の段には200円を支払って入ります。お金を徴収している方って、毎日、あの坂と階段を登ってくるのかしらん?

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この見上げる角度はなんとなく真田丸OPに似ていますが、OPに出てくるのはこの天守の横側です。ドローンか何かで撮影したとのことで、あれこれ場所を探してみましたが、「たぶんここだろうな」という場所はわかったのですが、同じ光景を撮影するのは無理でした。

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いよいよ中に入ってみます。

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この辺は最近改修されたようです。竹田城ほどではありませんが、ここも結構人気があるようです。真田丸効果もあるらしい。

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うむ、年季が入っています。さすがに本物です。石垣もそうですが、こんな山のてっぺんに、車や重機もない時代にこれだけの木材を運び上げるのですから、当時の苦労が忍ばれます。

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さすがに梁がでかいですw

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はしごのような階段を登ります。昔の人はあんな着物でこんな急な階段を上り下りしたんですからねえ・・・。再建城は安全や強度を考慮してもっと緩やかで踏み板も広く取られています。まあ、その方が上がりやすいのですが、ボクとしては当時と同じのように再建してほしいところです。

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こうして見ると、天井がすごく高いのがよくわかりますね。理由があるのですが、今から考えると暖房効率わるそうだなあ、と小市民なことを考えてしまいますw

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天守最上階です。外から見えたとおり、二層です。1階と比べるとかなりこぢんまりとしています。

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がっちりと太い梁がクロスしています。

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外を見ると、城下町を見下ろすことができました。うむ、ニワカ城主になった気分です。右側の木をもう少し伐採すると、市街地が一望できそうです。天守はそれほど高いわけではないんですが、山頂に建っているので見晴らしは抜群です。山頂に至る道はこれまで紹介したように、大手門などでガッチリと守られていて、まさに難攻不落なんでしょう。しかし、山頂なので、大手門を突破されると水の入手が大変そうですが、ちゃんと対策は講じられています。裏手に井戸があるのです。しかし、こんな山の上でちゃんと水が出るんでしょうか?

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ということで、備中松山城でした。もともと城好きなので、現存天守にはすべて行ってみたいと思っていました。なので、真田丸とは関係なくても来たと思います。でもまあ、大手門の写真の枚数が激増したのは真田丸のせいだとは思いますがw

機会がありましたら、ぜひ訪れてほしいお城でした。

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備中松山城

備中松山城 - 高梁市公式ホームページ

備中松山城 - 高梁観光情報|備中たかはし

www.castlefan.com

『真田丸』オープニングその① 備中松山城その①

真田丸

真田丸』が最終回を迎えたので、そのオープニングに使われている場所をご紹介します。

最初は鏡池、それから米子大瀑布、岩櫃城と続いて出てくるのが、備中松山城です。

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備中松山城といえば、城にちょっと詳しい人ならすぐにピンとくると思いますが、全国に12しかない現存天守を持つ城です。真田丸のオープニングにもここの天守が出てきます。臥牛山に建っていますが、もともとは松山と呼ばれていたので松山城というわけです。

有漢郷(現高梁市有漢町)の地頭であった秋庭重信氏が建造し、その後、1683(天和三)年に水谷勝宗によって修築されています。

現在、駐車場から鞴(ふいご)峠までワゴン車で移動し、そこから備中松山城まで徒歩で登るようになっています

。赤で示してあるところです。

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 けっこうな斜度の山道を登らなければなりません。道は歩行者用と右側に見える自動車用のアスファルト舗装された道があります。どちらが楽ということはありません。歩行者用もしっかりとコンクリで舗装されているので歩きやすさも同じくらい。それなりの山道ですので、スニーカーなどの歩きやすい靴は必須です。

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どんどん登っていくと、中太鼓櫓に出ます。

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さらに登ると上太鼓丸に

出ます。すばらしい野積みの石垣。こんな山の中にこれだけの石垣を積み上げたというのは驚きです。実はまだ序の口ですが。

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いよいよ大手門が見えてきました。

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斜面を登ってきたので、余計に大手門が壮大に見えます。しかし、感動はまだ先でした。

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おお!!

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これを見上げた瞬間、真田丸のオープニングが聞こえてきたような気がします。塀は当時のものではなくて再現ですが、実際にこんな感じだったのでしょう。OPとは違い、滝は流れていません。あれはCG合成です。

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大手門には建物は残っていませんが、左右にある石垣の上に櫓門が建っていました。うーん、これだけの櫓門、しかも急斜面からのアプローチなので、上から一方的に攻撃されそうです。

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大手門を抜けるとそこには段々畑状態の石垣が連なっています。

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大手門から先は正面の櫓をぐるりと回らなけばなりません。この間、櫓からの攻撃にさらされるわけです。

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ここで土塀を見て、「ん?」と思った人はかなりの上級者w

この手の土塀は山の斜面を登り切ったところに建てられているはずです。だから塀の外は下への斜面。つまりこのような銃眼は下向きに作らなければなりません。この銃眼だと水平にしか打ち出せない状態です。これは水谷勝宗が松山城を修復したとき、すでに太平の世になっていて、銃眼のことをよく知らなかったためにこんなのになってしまったのです。うーん、単なる模様ですなw

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うーん、めっちゃ段々畑・・・。これを攻め上るのかと思うと攻め手側は一気に萎えちゃうでしょうねえ・・・。

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これが大手門正面の櫓の跡から見下ろした写真です。下から見上げるよりも高く見えて足がすくみます。

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まだ大手門までしか来ていませんが、ちょっと写真の枚数が多くなりすぎたので、今日はここまで。(実際にはここまでで100枚以上、写真を撮っています)

 

『真田丸』最終話を前に。

真田氏 関西地区 真田丸

いよいよ本日(12/18)は今年の大河ドラマ真田丸

www.nhk.or.jpの第50話(最終話)が放送される。これを書いている時点でまだ

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未視聴、というか、放送されるずっと前だ。第48話は『引鉄』、第49話は『前夜』といった具合に、これまでずっと副題が付いていた。最終話は副題なしだ。放送内容を端的に示すようなキーワードとなる副題だったが、確かに、最終話では適当な副題が思いつかない。というよりも結末がわかっているだけに付けたくない。歴史

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物はある程度は脚本家の自由になるし、”ドラマ”なのだからガチガチに歴史通りでなければならないとは思っていない。実際、脚本家である三谷幸喜氏は許される範囲(と思う)内でいろいろなストーリーを膨らませてきた。「幸村」という名前もそうだ。一般には

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「幸村」は難波戦記など後世のそれこそ”脚本家”が願望や希望を込めて書き上げているのだから、判官贔屓の日本人、特に太閤好き、ひいては真田好きの大坂人には徳川家康公を苦しめ活躍する「幸村」に胸のすく思いを致したのだろう。その願望がピークになった

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のが幸村生存説だ。豊臣秀頼公を連れて逃げに逃げて薩摩まで行ったという。または秋田に商人に身をやつして行ったとか。まことしやかに語られることなのだが、噂の当地を訪ねるとちゃんと墓まで

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あったりするので、本当だろうか、と疑いつつも信じたくなるのはやはり真田贔屓のせいだろう。おもしろいことに、日本人は「引き際」とか「往生際」とか、有終の美とか、いわゆる死に様にも強く

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こだわる。だから、一方で、ここで果ててほしい、と思えなくもないのだ。三谷氏がどちらを選択されるかわからない。ストーリー本は買いはしたが1頁も見ていない。生き延びてほしい、と思いつつもやはりここは変に歴史を曲げずに討ち死にとなるストーリーであ

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るべきだ。ただ、三谷氏のことだから、討ち死にしたと結論づけられた後、兄である信之の前にちらりと現れてささっと去ってゆく信繁を登場させ、微妙な余韻を残して終幕とするような気がする。まあ、そのくらいは許容範囲とみなすのかもしれない。幸村の最期も

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だが、ボクとしては「大助」の最期の方がすごく気になる。秀頼公とともに自害するだろうが、父の最期を聞かされた瞬間や真田一族としての矜恃、自決の際の佩楯の逸話など、どれも涙なしには正視できないストーリーが盛りだくさんなのだ。幸村はいろいろあって49歳(諸説あり)まで生きたが、大助はたった16歳(諸説あり。13歳とも)で自決するのだから。父以上に過酷な結末を辿っている。ボクとしてはもっと大助に光を当てたストーリーであってほしいと願っている。大助のことを考えると、幸村と逃げ延びて薩摩や秋田で静かに暮らしてほしいと思うのだが。

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(文中では「幸村」と「信繁」がごちゃごちゃと使われていますが、いちおうボクなりに意味を持って使い分けているつもりです)

『真田街道ガイド』という名のスタンプ帳 その④

真田氏 関西地区 東北地区

さて、真田街道スタンプラリー第4弾。

今回は真田街道の一番東の端っこになるところから、急にぶっ飛んで別の地域へ。大阪から秋田へと西へ北へと奔走しました。

かたしなや

真田街道(と思われる)もっとも東側の片品村にあるかたしなや。片品村の役場などの近くです。ここから山手に進むとそこは尾瀬の入り口。そしてとうもろこし街道がw とうもろこし街道はその名の通り、道端にトウモロコシの売店が並んでいます。うーん、ここも真田氏とは縁がなさそうです。

三光神社

www.sankoujinja.com三光神社は以前にもここで真田氏御朱印拝受のスタート地点として紹介しました。この神社自体は直接真田氏とつながりがあるわけではないのですが、『真田山』にあり、真田丸があったところ、と伝わっています。真田の抜け穴などそれらしい遺構も残っていますが、最近の研究では心眼寺やその隣の大阪明星学園明星中高の辺りにあったとされています。三光神社の抜け穴は実際は真田丸に入り込むための徳川方のトンネルだったようです。昔は訪問者も少なかったんですが、最近は常に参拝客がいて、真田丸の影響が大きいようです。

㉜安居神社

明日(12/18)の『真田丸』に登場するであろう、真田幸村(信繁)公終焉の地です。ここもめっきりと参拝客が増えました。最初に訪問したときはひっそりとして静かでよかったのですが、『真田丸』人気で訪問客が激増しているようです。明日の放送以降はさらに増えるんじゃないかなあ。ここも主神は少彦名神ですが、菅原道真も祀られるようになったとか。幸村公がここで休んでいたところ、西尾氏に討ち取られた、ということになっています。ここで信繁公が、と思うといつ来ても感慨深いものがあります。

㉝史跡保存伝承の里 天鷺村

信繁公の娘、お田の方がこちらに嫁いでいて、妙慶寺にその墓や鎧が保存されています。天鷺村自体は由利本荘市岩城亀田の観光協会(?)のようなもので、再建城のように見えますが、もともとここには城はなく、モニュメントといったところでしょうか。施設には真田氏・お田の方に関する資料が展示されていました。

㉞道の駅 岩城

michinoeki-iwaki.com

ここは日本海のすぐ脇にある道の駅で人気の施設なのか、非常に混み合っていました。天鷺村と比べてここは日本海産物を多く取り扱っていて真田感はまるでなし。もうちょい関係ありそうなトコロに置いてほしいですね。

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姫埼灯台

灯台

今日ご紹介する灯台は、新潟県佐渡島にある、姫埼灯台です。

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姫埼灯台(海上保安庁)

前回の菅島灯台に続き、こぢんまりした灯台ですが、実はすごい灯台なのです。佐渡島の両津湾に入る船の安全を守る灯台として明治28年に建設されました。よくある他の灯台と大きく異なるのはこの姫埼灯台は鉄製なのです。しかも現存では日本最古の鉄製灯台。ここもこの先の灯台があるの?というような場所に建っています。車が4台ほど止められる小さな駐車場、しかも草が生い茂っているw で、案内板の通り数分ほど歩くと木々の間から灯台が見えてきます。

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ちょっと小高くなっているところに、白い灯台が建っています。ぱっと見、鉄製かどうかはわかりません。

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が、近づくと、上下をつなぐL字鋼やU字鋼とそれらを止めるリベットが見えてきて、ああ、鉄製なんだと気付かされます。

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近くまで寄ると、灯台全体が鉄製だとわかり、びっくりするでしょう。補修され、ペンキを何度も塗り直されているのでしょうが、それにしても120年以上前の鉄製の構造物がこれほどしっかりと残っているというのはすばらしいことです。そういう歴史的なものと相まって、実に絵になる灯台です。小さいですが威厳があります。見た目のイメージは海の航路近くに浮かんでいる灯浮標に近い、かな? (余計にわからないかw)

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初点は明治28年12月10日。1985年です。

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当然ですが、世界の灯台100選、日本の灯台50選、近代化産業遺産に選ばれています。ただ、知る人ぞ知る灯台なのか、訪問客はボク一人。1時間ほど(w)いましたが、誰も来ませんでした。アクセスする道路は整備されているわけではなく、観光資源というわけではなさそう。日本に5つしかない世界100選の灯台なんですけどねえ。鉄製灯台は傷みやすく、潮風が当たりやすいところに建っていることが多いので、きれいな状態ではなかなか残っていないのです。貴重な灯台であることから、Aランク保存灯台となっています。以前に紹介した犬吠埼灯台と菅島灯台もAランク保存灯台です。

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姫埼灯台から海を見ると、美しい色の海面が見えます。天気もよかったので余計にきれいな碧でした。

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姫埼灯台

所在地     新潟県佐渡市両津大川
光達距離     17海里(約 32 km)
塔高     14.2 m (地上から塔頂までの高さ)
灯火標高     41.5 m (海面から灯火までの高さ)
初点灯     1895年(明治28年)12月10日

 

『真田街道ガイド』という名のスタンプ帳 その③

真田氏 沼田

さて、ちょっと時間が空きましたが、真田街道ガイドスタンプ帳紹介の続きです。

今回の分は真田街道という『道』周辺施設が多く、真田氏との関係は薄いものばかりです。

⑳生方記念文庫

www.city.numata.gunma.jp生方記念文庫は生方たつゑという女流詩人の意思によって寄贈された文庫です。生方たつゑは⑲の生方家に嫁いできました。ここも真田氏との直接の関係はありません。

正覚寺

www.city.numata.gunma.jp

www.city.numata.gunma.jp沼田の正覚寺は信之公の正妻である小松殿の墓があります。小松殿は埼玉県鴻巣でなくなりますが、鴻巣の勝願寺、上田の芳泉寺、そしてここ正覚寺に分骨されました。沼田では信之公以上の人気です。

名胡桃城址

名胡桃城沼田城の対の城、つまり沼田城を攻略するために作られました。確かに絶妙の位置にあります。尾根をうまく利用した難攻な城でした。今はきれいに整備され、城の遺構がよくわかるようになっています。

道の駅 たくみの里 豊楽館

ここは真田街道から北へ外れたところにある道の駅です。温泉やそば打ち体験など比較的メジャーなスタイルの道の駅ではないでしょうか。ここも特に真田氏との関連はありませんでした。

月夜野はーべすと 道の駅「矢瀬親水公園」

ここも㉓たくみの里と同じく、真田街道から離れた三国街道沿いにあります。縄文時代の矢瀬遺跡がありますが、真田氏とは関係ないようです。

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㉕道の駅あぐりーむ昭和

agream-showa.jpあぐりーむ昭和はその名の通り、農家からの直販がメインの道の駅です。最近の道の駅はこの産直タイプが主流になってきましたが、あぐりーむ昭和はそれが徹底しているというか、直売所が道の駅になったような感じ。ここも真田感はゼロでした。

㉖道の駅川場田園プラザ

www.denenplaza.co.jpここは道の駅としてはかなり大規模で、さまざまな施設が集まっています。まさに「プラザ」な道の駅です。ここ真田氏との関連はなし。

ホテルSL - SL D51に乗車体験できる群馬県川場村のホテル

㉖田園プラザと同じところが経営しているようですが、場所は違います。『デゴイチ』の相性で知られる蒸気機関車D51が現役で走っていました。残念ながらD51の運行は今年で終わるようです。真田感はなし。

㉘土田酒造

www.homare.biz誉國光という日本酒の蔵元として有名だとか。ボクは酒が弱いので詳しくはわかりませんが、かなり人気の蔵本のようです。かなり多種の試飲あり。いい気分で出てくるお客さんもいました酒粕で作ったソフトクリームを食べましたがまろやかな甘さでなかなかでした。アルコールは0%なのでドライバーが食べても問題なし。酒好きの真田一族が飲んでいた、というわけではなさそうです。

㉙花の駅片品花咲の湯

www.hanasakunoyu.comここは真田街道東のさらに山手にあります。ここが真田街道なのか、よくわかりません。花の駅となっていますが、一見、温泉施設です。人気の温泉施設らしく、駐車場はぎっしりでした。温泉に入らなくてもスタンプは押せます。ここも真田感はありません。沼田領だったころの領地でしょうか。

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 ということでスタンプラリーの第三弾でした。残念ながら、今回は真田街道があった地域にある道の駅などの施設ばかりでしたから、真田氏との関係は見出せないところばかりでした。まあ、それでも真田氏が領有していた土地ですから、少しでも関係した話や神社仏閣、施設などの紹介くらいはあっても良さそうだと思うのですが。上州(群馬)に入ってからはその手の情報が一段少なくなっている気がします。沼田時代は重税を課して民衆を苦しめたというブラックな時代がありました(それで結局お取りつぶし状態に・・・)から、思い出したくない黒歴史なのでしょうね。沼田は「第二の真田丸の舞台」(だったと思いますが)をキャッチフレーズに盛り上げようとしていますが、真田や上田ほどの盛り上がりはありませんでした。(『真田丸館は人気でした』)

 

インクを濃くする。その①

万年筆 インク

 今日はインクの濃縮です。

先日、銀座にある万年筆専門店のEuroBox

www.euro-box.comに行ったときのこと。デスクに置いてあったインクが殊の外お気に召した方がいて、「このインクは何?」と聞いておられました。インクはPelikanのロイヤルブルーで、インク壺のフタを開けて放置しておいたものとのこと。少しずつ水分が揮発して濃くなったのでしょう。通常のロイヤルブルーより色が濃く、かつ少し粘度が上がっているような気がします。これと比べると、通常のロイヤルブルーは水っぽく感じます。おもしろいので、自分でも作ってみようかな、と思いましたが、長いこと、インク壺のフタを空けておくなど、蹴っ飛ばして(あるいは引っかけて)ぶちまけて下さいというフラグが立つこと請け合いなので、もっと手っ取り早く濃くする、すなわち濃縮してみることにしました。

 濃縮とは、溶液の溶媒量を減らし、溶液に占める溶質の割合を高めることです。うーん、回りくどいww。要は溶媒(通常は水ですね)を飛ばして溶質の濃度を上げるということですね。濃縮法はかなりいろいろあって、いわゆる加熱濃縮が一番手っ取り早く、かつやりやすい方法です。加熱することによって、溶媒である水を強制的に蒸発させ濃縮します。が、これには大きな問題があって、加熱によって成分が変質する可能性が考えられます。よって強く加熱しない減圧蒸留による濃縮を試してみました。減圧蒸留によって効率よく濃縮するのはエバポレータが便利ですが、インク量が少なく、温度調節しやすい方法で行ってみました。

まずはどこの家庭にも必ず1台はあるダイアフラムポンプ(白いヤツ)とこれも一人一つは持っている真空デシケータを用意します。

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ロイヤルブルーインクをスクリュー瓶に小分けします。

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瓶の半分ほどまで入れました。

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これをデシケータ内に入れます。

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真空デシケータに耐圧ゴム管でポンプをつなぎます。

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ここでポンプでデシケータ内部の空気を抜いて真空に近い状態にします。減圧されることによって、水の沸点は下がり、低い温度で沸騰し始めます。沸騰によって水分が気化するわけです。

効率を上げるため、少しだけ加熱してみました。インクですので少なくとも人肌程度で成分が変質したり分離したりしないと見なして、40℃程度に加熱します。これもよく見かけるデシケータ用加熱装置です。

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このまま、1時間ほど放置しました。

そうして完成したのがこれ。

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上の写真と比べて液量がかなり減っているのがわかると思います。実は少量ですが、油断して突沸して吹き出したため、その分も減っています。が、それを差し引いても1/3くらいになっています。4枚目のアルミ箔は突沸防御用だったんですが、勢いがよくてアルミ箔は飛ばされてしまいました。

その後、デシケータ内が水分で曇るほど蒸発していき、上のような濃縮インクができあがりました。

 ちょっとカメラの関係で色の濃淡の差がわかりにくいのですが、けっこう濃くなっています。気のせいか、青みが濃くなったような? 粘度も上がっています。

もしご希望の方がいらっしゃいましたら、お分けいたしますよ。

次は別の濃縮法を。もちろん、ご家庭にあるもので誰でも簡単にww