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ぽちぶろぐ

真田氏、万年筆、灯台など興味あることを徒然に書いてみます。

志紀長吉神社御朱印

 本日は大阪市にある志紀長吉神社の御朱印です。

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志紀長吉神社と真田信繁公との関わりは大坂夏の陣にあります。夏の陣は誉田、道明寺の戦いなど、大阪南方の地で繰り広げられた局地戦の総称のようなものですが、その道明寺の戦い後、大阪城方面へ撤退する途中で志紀長吉神社に立ち寄り、日蔭明神に戦勝を祈願して刀と軍旗を奉納したとか。信繁の刀や槍などの武具はほとんど伝わっていないため、ここに奉納されたものが残っていれば・・・、というところですが、残念ながら戦後GHQに接収されたようです。信繁の刀は他にもう一本あるようですが、確定はしていないようです。勝ち残っていたら、本多忠勝の槍、蜻蛉切のように残っていたかもしれません。名のある刀は戦いの中で失われたり、火災で焼失したり、戦争で失われたりと悲劇的な末路を辿ることが多いようです。敗戦の武将の刀だったら余計に残らないでしょうね。だからここにあったらよかったのですが・・・。できれば信繁公愛用の刀や槍が見たかった・・・。

 お気づきの方もいらっしゃるかもしれませんが、これまで紹介した御朱印は主に信繁公が大坂・九度山に滞在した場所にゆかりがあり、かつ御朱印に六文銭が押印されているものです。他に三光神社と最近では心眼寺の御朱印にも押されるようになりました。

 戦国武将ゆかりの御朱印としては真田氏はかなり多い方でしょう。戦国大名よりも多いかも。それだけ有名な武将だったということでしょうか。ちょうど大河ドラマであちこち「ゆかりの地」を名乗り、少しでも関係のあったところは真田幸村(あえて”幸村”と称しています)に「ちなんだ」御朱印が出てきたところでしょう。志紀長吉神社も幸村公の参拝を受けていますが、本来、参拝者という以外の関連性はなく、徳川政権時代は奉納された刀や軍旗はひた隠しにしていたのかも。この辺の詳細はわかりませんが、兄である信之公が松代の菩提寺に信繁公の慰霊碑を建てることもできずにいたということから考えると、そうそう公にはできなかったと思われます。のちにまた書きたいと思いますが、少なくとも徳川時代の信繁の墓と言われているものとして、竜安寺の塔頭大珠院内にある弁天島(鏡容池にある)に信繁の七女おかねが立てた墓があります。これは信繁の墓というよりは妻である竹林院の墓を建てるときに信繁・竹林院夫婦の墓として建てたというべきでしょう。他には白石市にある田村家墓所に銘もない自然石の墓石があり、これが信繁の墓と言われています。伊達家臣であった田村家に嫁いだ阿菖蒲の墓の隣に父である信繁の墓を置いたのでしょう。ただ徳川政権では信繁は「大罪人」であったため、銘を刻むのがはばかられたようです。また、長野市の典厩寺にも銘のない小さな自然石の慰霊碑があり、これが信繁公の慰霊碑と言われています。典厩寺は武田信玄の弟武田典厩信繁を弔うために建てられた寺で、信繁という名前は武田信繁公を慕う父、昌幸があやかって自分の次男にその名を付けたと言われています。そういう縁か、いつしか真田信繁公の慰霊碑がひっそりと建てられた、とされています。典厩寺の碑は案内も何もないので、あまり知られてはいないようですね。さらに、亀田藩に嫁いだ四女のお田の方が由利本荘市の妙慶寺に一族の墓を建立しています。

  今のところ、これら以外の墓や碑は明治になってからかもしくは創作的に作られたものであるようです。江戸時代に幸村公を題材とした難波物語など多数の創作物ができましたが、そういった創作物の延長であるもののようです。それでも案外事実が眠っているのかもしれませんが。実はそういった少々事実関係があやふやなところにも足を運んで「幸村公墓」に手を合わせてきています。そちらもそのうち御朱印も含めて紹介する予定です。