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ぽちぶろぐ

真田氏、万年筆、灯台など興味あることを徒然に書いてみます。

『真田丸』最終話を前に。

いよいよ本日(12/18)は今年の大河ドラマ真田丸

www.nhk.or.jpの第50話(最終話)が放送される。これを書いている時点でまだ

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未視聴、というか、放送されるずっと前だ。第48話は『引鉄』、第49話は『前夜』といった具合に、これまでずっと副題が付いていた。最終話は副題なしだ。放送内容を端的に示すようなキーワードとなる副題だったが、確かに、最終話では適当な副題が思いつかない。というよりも結末がわかっているだけに付けたくない。歴史

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物はある程度は脚本家の自由になるし、”ドラマ”なのだからガチガチに歴史通りでなければならないとは思っていない。実際、脚本家である三谷幸喜氏は許される範囲(と思う)内でいろいろなストーリーを膨らませてきた。「幸村」という名前もそうだ。一般には

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「幸村」は難波戦記など後世のそれこそ”脚本家”が願望や希望を込めて書き上げているのだから、判官贔屓の日本人、特に太閤好き、ひいては真田好きの大坂人には徳川家康公を苦しめ活躍する「幸村」に胸のすく思いを致したのだろう。その願望がピークになった

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のが幸村生存説だ。豊臣秀頼公を連れて逃げに逃げて薩摩まで行ったという。または秋田に商人に身をやつして行ったとか。まことしやかに語られることなのだが、噂の当地を訪ねるとちゃんと墓まで

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あったりするので、本当だろうか、と疑いつつも信じたくなるのはやはり真田贔屓のせいだろう。おもしろいことに、日本人は「引き際」とか「往生際」とか、有終の美とか、いわゆる死に様にも強く

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こだわる。だから、一方で、ここで果ててほしい、と思えなくもないのだ。三谷氏がどちらを選択されるかわからない。ストーリー本は買いはしたが1頁も見ていない。生き延びてほしい、と思いつつもやはりここは変に歴史を曲げずに討ち死にとなるストーリーであ

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るべきだ。ただ、三谷氏のことだから、討ち死にしたと結論づけられた後、兄である信之の前にちらりと現れてささっと去ってゆく信繁を登場させ、微妙な余韻を残して終幕とするような気がする。まあ、そのくらいは許容範囲とみなすのかもしれない。幸村の最期も

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だが、ボクとしては「大助」の最期の方がすごく気になる。秀頼公とともに自害するだろうが、父の最期を聞かされた瞬間や真田一族としての矜恃、自決の際の佩楯の逸話など、どれも涙なしには正視できないストーリーが盛りだくさんなのだ。幸村はいろいろあって49歳(諸説あり)まで生きたが、大助はたった16歳(諸説あり。13歳とも)で自決するのだから。父以上に過酷な結末を辿っている。ボクとしてはもっと大助に光を当てたストーリーであってほしいと願っている。大助のことを考えると、幸村と逃げ延びて薩摩や秋田で静かに暮らしてほしいと思うのだが。

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(文中では「幸村」と「信繁」がごちゃごちゃと使われていますが、いちおうボクなりに意味を持って使い分けているつもりです)