ぽちぶろぐ

真田氏、万年筆、灯台など興味あることを徒然に書いてみます。

『真田丸』に建つ 心眼寺御朱印

 さて、最近の研究で真田丸が実際にどのようなものか少しずつ解明されてきました。これだけ有名な出城だったわけですから、数多くのいろいろな文献に記されています。が、どれも半月形の砦だという記述ばかりで、具体的な構造が明確ではなかったのです。この形状には訳(というか、背景)があり、武田信玄が築城の際に好んで用いた丸馬出をそっくりそのまま巨大化させたような構造だと考えられたのです。大坂城も巨大だからその丸馬出も巨大だったという発想でしょうか。信繁(幸村)公の父である昌幸は築城の名人として知られており、その築城技術は山本勘助や信玄の薫陶を受けたことがわかっています。なので、その息子である信繁も父の影響から丸馬出にしたのだろうという推量だった可能性が高いのです。というのも、真田丸はそれ自体がかなり大規模な独立した城と呼んでも差し支えないほど大きく、それにほぼ完璧に徳川軍は撃退されていたので、真田丸の内外部の詳細はわかっていなかったのです。和議が結ばれると、真っ先に真田丸は取り壊されます。ドラマでは徳川軍が徹底的に壊した、とありますが、一説には信繁自ら壊した、という説もあります。真田丸の構造を家康に知られたくなかったためとされ、僕はこっちの説の方がしっくりくるような気がします。どちらにしても真田丸は完全に取り壊されてしまったために、漠然としたイメージしか伝わっていなかったのでしょう。しかし、最近、『極秘諸国城図』(松江歴史館)という古文書が見つかり、その中に真田丸もかなり正確に記述されていました。この中に”寺”として記載があったのが今回紹介する心眼寺です。

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真田丸があった辺りは現在では真田山という地名で呼ばれる、小高くなった一帯です。そこに今回紹介する心眼寺、その南の興徳寺、大應寺が並んでいて、発見された絵図とよく一致しています。よって現在ではこの心眼寺の辺りに真田丸があったと考えられるように変わってきました。心眼寺の山号も真田山です。

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入り口山門の前には真田丸跡であることを示す碑が建っています。

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門扉には六文銭。『真田丸』のオープニングに出てきそうな立派な六文銭です。

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門から本堂を見たところです。

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門をくぐった左手には信繁公の『墓』があります。この墓はつい最近、2015年の没後400年(1615年5月7日没)を記念して建てられたものです。真田丸跡の碑には「幸村」と書いてあったのにこちらは信繁、しかも豊臣性。うーん、どっちかに統一した方がいいんでない?

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心眼寺自体は大坂の陣以後に創建立された寺で、信繁・大助親子の冥福を祈るために創建されました。なので寺紋も六文銭です。

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心眼寺坂と呼ばれる坂を下側から撮影しました。方向で言うと大坂城側(北側)から南に向いて取ったところ。大きな千手観音(大應寺)の手前が心眼寺です。右側の白い建物は大坂明星学院です。つまり僕が撮影時に建っていたところは真田丸大坂城惣構えと真田丸との間の堀跡ということになります。心眼寺は僕から見ると高台になっていることがわかると思います。

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同じ場所で左側、つまり東向きに撮ったところです。5mくらいある高台の上に心眼寺の墓地があります。これが大坂の陣当時の地形の名残とすると、心眼寺坂は大坂城真田丸との連絡通路ということになります。

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心眼寺坂を少し登ると心眼寺の入り口に到達します。なるほど、400年もまえのことですが、存外地形は残っているものです。実はこれを検証したのはもう1年くらい前ですが、先日(2016年11月12日、#54「大坂城真田丸スペシャル~大坂城はなぜ難攻不落?~」)、『ブラタモリ』でも同様の検証が紹介されていました。

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心眼寺から道を挟んで向かい側に真田丸の顕彰碑が建っています。最近、建立されたようです。

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顕彰碑に掲載された地図です。赤丸で囲まれた辺りが顕彰碑を中心とした円です。「真田出丸跡」と書かれている辺りが現在の明星学院になります。道を挟んで文字が並んだ辺りが心眼寺や大應寺があるところです。真ん中の道は僕が心眼寺坂を撮影していた道です。こうしてみると、本当に現在の地形とよく一致してますよね。この辺に真田丸があって、信繁公や大助公が闊歩していたかと思うと実に感慨深いですね。

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心眼寺

山号 真田山

本尊 阿弥陀仏座像

住所 大阪市天王寺区餌差町2番22号