ぽちぶろぐ

真田氏、万年筆、灯台など興味あることを徒然に書いてみます。

『真田丸』終了記念 一心院

 『真田丸』では安居神社と思われる神社の境内で切腹するかのような終わり方でしたが、全国には幸村生存伝説がたくさんあります。今回はその一つ、秋田県大館市に残る逸話です。僕自身、この手の逸話を信じているわけではありませんが、それでも人々が幸村公を生かしておきたいという気持ちには強く共感できますね。

 安居神社で討ち取られたのは幸村の影武者で、幸村は秀頼と大助を伴って薩摩まで逃げた、という。これは西尾氏によって持ち帰られた幸村公の御首級が、家康の前で首実検が行われた際に、叔父である信尹がはっきりと幸村の首だと見分けられなかったこと、それから幸村の活躍を薩摩藩初代藩主である島津忠恒が激賞し、「真田日ノ本一の兵、古の物語にもこれなき由」と評したことが『薩摩旧記雑録』に記述されています。これが伝わって、真田幸村のキャッチフレーズが「日ノ本一の兵」になったのです。しかし、忠恒は大坂の陣には参戦しておらず、幸村の活躍は直接は知らないはずです。これは島津氏が徳川氏に含みを持っていて、その家康が幸村の猛襲に慌てふためいて逃げ出したことに快哉を叫んだのではないでしょうか。だからあくまで「武士としてあっぱれだ」と賞賛したのでしょう。これが島津氏も真田びいきと世の人には映ったのかもしれません。その関係か、

花のようなる秀頼様を鬼のようなる真田が連れて退きも退いたり加護島へ

という童歌が流行し、あたかも幸村が鹿児島へ逃げ伸びたと思わせるように思われたのです。実際は願望込み、でしょうが。で、その後、幸村と大助は鹿児島で生涯を終えたという説もありますが、薩摩で数年間過ごしてほとぼりを冷ました後、大助を連れて奥州に旅立ったというのです。奥州は伊達氏が治めていた土地であり、大坂の陣のときに密かに大八と娘達を預けていました。大八の存在は絶対極秘にしなければなりませんが、幕府は娘達の処遇には比較的寛容でした。その関係で幸村は奥州へ向かったとされたようです。その後、幸村と大助は大館の岩神に住みつき、「信濃屋長左衛門」と名を変えて商人として75歳で生涯を終えたとなっています。その信濃屋長左衛門の墓が秋田県大館市の一心院という寺にあるのです。

真田幸村の最期の地、大館 - 秋田県大館市一心院 

 

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当然ですが、武将の菩提寺というわけではないので、寺の定紋六文銭ではなく、皮肉なことに三葉葵です。

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ここはいわゆる観光寺ではなく、一般的なお寺ですので、訪問の際は観光協会やお寺に問い合わせる必要があります。僕は予め連絡しておいたら、なんとご住職が対応してくださいました。しばらく本堂で幸村伝説にまつわるお話を聞くことができました。

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で、こちらが幸村公と言われている信濃屋長左衛門のお墓です。どちらも長左衛門のお墓ですが、右側の少し白っぽい方がオリジナルのお墓。ご覧のようにすっかり風化して表面に掘られた文字が全く読めなくなっています

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そこで改めて立て直されたのが左側のお墓です。「信濃屋長左衛門」以外に「真田左衛門佐幸村」と掘られています。

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このお墓は昭和28年の長左衛門の313回忌に信濃屋長左衛門の子孫の方が建立されました。子孫が居るということは少なくとも信濃屋長左衛門が実在していた、ということになりますよね。幸村かどうかはともかく。

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こちらの地蔵堂は幸村公が奥州を巡礼する際に背中に背負ったと言われる張り子のお地蔵様を納めたお堂です。残念ながら本物の張り子のお地蔵様は戊辰戦争のときに焼失したと言われています。しかし、これだけあれこれ揃っていると一概に作り話の一言で片付けられないような気がしてきます。繰り返しになりますが、長左衛門はいたんでしょうからねえ。

まったく関係ないならば、死後に自分があの幸村公になっていたとしたら、長左衛門さんもびっくりでしょうねえ。

幸村公と言われる信濃屋長左衛門のお墓は立て看板に場所が書かれています。が、非常にわかりづらいと思いますよw

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一心院

秋田県大館市谷地町96

山号 起行山

宗派 浄土宗