良泉寺御朱印
本日の御朱印は真田町の良泉寺です。
良泉寺は矢澤家の菩提寺です。真田幸綱公の弟である矢澤頼綱公によって創建されました。ですので、地紋は六文銭で、このとおり、御朱印にも六文銭がばっちり押印されています。宗派は曹洞宗。真田家は基本的に曹洞宗で、妻や嫁いでいった娘達の菩提寺は曹洞宗以外の宗派もあります。もともとは広沢寺という小さなお寺でしたが、頼綱公が拡充して創建したとのこと。良泉寺のホームページには矢澤綱頼創建と書いてあるので、このころ(1580年)は『綱頼』と名乗っていたのでしょう。(矢澤頼綱は『綱頼』->『頼綱』->『頼幸』と名前が変遷しています)永楽通宝も押印されています。この地(上田市殿城矢沢)が矢澤氏が松代へ移った後、仙石氏による支配が及んだためです。
ちなみに、左の字は「大安山 良泉禅寺」です。下の石塔もそうなっていますよね。
この「ネ軍」は古い漢字なのか、それとも崩しなのかいまいちよくわかりません。でも調べてみると、ちらほら「ネ軍」が出てきます。ボクは一瞬、「褌(フンドシ)・・・??」と読んでしまいましたw「ネ」編と「衤(ころも)」編の違いにはすぐ気がつきましたが、「ネ軍」の漢字がピンと来ません。どなたか、ご存じの方、お教え下さい。
良泉寺山門。真田町のお寺は立派な山門があるところばかりです。禅寺の影響でしょうか。
そして本堂の屋根には光り輝く六文銭。
寺門が六文銭ですと、あちこちに六文銭があります。六文銭探しをするのも楽しいですよ。
六文銭以外に、瓦には三つ巴紋もありました。
矢澤綱頼夫妻のお墓もありますので、ぜひお参りしてみて下さい。
大安山良泉禅寺
長野県上田市殿城矢沢
宗派 曹洞宗
上田で食事(ぷちらぱん)
上田で食事するところはたくさんありますが(当たり前か)、真田関連の食事処もたくさんあります。その中で、せっかく上田に来たんだから、という希望に沿うようなお店をご紹介します。
上田駅前通にある『ぷちらぱん』です。ほぼ商店街の中心付近にあります。ちょっとしゃれた感じの洋食屋さんです。
入り口にはこんな立て看が。オムライスが有名です。ボクは真田好きでオムライス好きなので、一石二鳥(?)なお店です。
入り口前にはこんな案内もw
車で来ているので飲酒はできませんが、ちょっと気になるところ。いわゆる地ビールです。
いろいろ種類があります。ここはやはり、ベーシックなヤツでチキンライス&トマトソースで。
上品なオムライス。きれいにまとめられています。オムレツの上には六文銭の焼き印。少し小ぶりです。女性向きかな。男性には少し足りないかも。
ソースはさっぱりとした酸味のあるトマトソースです。周りの人たちもほぼオムライスを食べていました。
中はとろりとしたチキンライスです。ソースが絡んでいるので水分があるように見えますが、チキンライス自体は水っぽくはありません。ソースのないところを分ければいいんですが、そこはそれ、六文銭の焼き印が入っているので、やっぱり避けてスプーンを入れますよね。けっこうおいしいです。チキンライスはそれほどソースはきつくなく、ソース、オムと絡めて食べるとちょうどいいかな。ボクのような観光客もいるのでしょうが、雰囲気からして、地元の方も多いようです。オムは厚めです。中の具は小さめに切ってあります。
あっ、写真の店は以前のぷちらぱんです。現在は移転しています。もうちょっとおしゃれ~な店舗になっています。詳しくは下のホームページからどうぞ。新しいお店に行ったらまたご報告します。
キッチン ぷちらぱん
0268-25-8091
〒386-0012 長野県上田市中央2-11-15
犬吠埼灯台
ずっと真田氏関連でしたので、今日は灯台をご紹介します。
日本人が思い浮かべる灯台はこれだ!、と言える非常にきれいな姿。高さと言い、形と言い、非常にバランスのとれた素晴らしい灯台です。
入り口の表札。門に貼り付けられています。
すぐしたから見上げたところ。『白亜の灯台』というフレーズがぴったりですね。
灯台の登り口のプレート。門の表札と共に、灯台設立時から掲げられていたもののようです。
この犬吠埼灯台はイギリス人技師、リチャード・ヘンリー・ブラントンによる設計施工で、明治7年11月15日に完成しました。実は日本の建築技術、施工技術などの集大成のような建物なのです。灯台を作るときにはレンガが必要なのですが、このレンガは輸入品で非常に高価だったのです。それを国産化に成功し、犬吠埼灯台のような高い塔にも利用できるようになりました。そのかげで関東大震災の時も耐えて、1987年に改修されるまで保ち続けたのです。よって、経産省が選定した近代化産業遺産にも選定されました。まあ当然ですよね。なんと、国際航路標識協会によって世界灯台100選にも選ばれています。 このほかに、日本の灯台50選、Aランク保存灯台にも選出されています。
ちなみに、日本の灯台のはじまりは高灯籠や灯明台、常夜灯と言われるもので、近代灯台に比べると圧倒的に光量が足りません。よって西洋式灯台として初めて国内に建設されたのが神奈川県の観音埼灯台でした。観音埼灯台はフランス人技師ヴェルニーによる建設です。また後で観音埼灯台も紹介しますが、二人の技師の設計に違いが見られ、なかなか興味深いところです。
用いられているレンズが最大の第1等レンズであるので、第1等灯台とも称されます。いわゆるフレネルレンズと呼ばれる、灯台特有の大型レンズです。
いや美しいです。
このレンズによって、中心の電球の光が遠くまで到達できるわけです。
灯台の敷地内には犬吠埼灯台の歴史や灯台の仕組みがわかる資料館が併設されています。こうしてみると、用いられているフレネルレンズのでかさがわかりますね。灯台に関する詳しい話はまた改めてご説明したいと思います。
ここから霧笛が鳴っていました。ブオーってやつです。
絵になりますね!
航路標識番号 1869 [F6478]
レンズ 第1等フレネル式
灯質 単閃白光、毎15秒に1閃光
光達距離 19.5海里(約 36 km)
塔高(灯台の高さ)31.30 m
灯火標高(海面から灯火までの高さ)51.80 m
日向畑遺跡
今回は、昨日紹介しました安智羅神社の隣にあります、日向畑遺跡です。
真田町から角間渓谷に向かう途中にあります。
小さな看板がw
角間渓谷方面へ少し登った辺りが角間地区です。真田町は看板にも六文銭が入っています。日向畑遺跡は下の道が緩やかに左へ曲がったところ、ガードレール辺りに橋があるのですが、その橋を渡ったすぐのところです。
左手を見ているとこんな案内が立っています。
が、道はこんな感じで、ほんとにこっちで合ってるの?、と思うような道です。
この道を2,30mくらい登ると、ちゃんと日向畑遺跡がありました。ちょうど、松尾古城のあった山の麓になります。
真田町や上田市の観光案内にも記載されている重要遺跡です。・・・が、あまり整備されているという感じはありません。柵もかなり錆び付いています。
柵で囲われた中に、五輪塔と宝篋印塔が並んでいます。この辺りが真田氏の起源になった土地ではないか、と言われています。
ここには真田氏の菩提所であった常福院が建っていた場所で、これらの塔はその寺院にあった真田氏の墓ではないかということです。この墓から火葬された遺骨が見つかっています。そう言えば、昌幸公が亡くなった後火葬されて蟄居の地であった九度山の善名称院にある墓に埋葬され、一部が真田町の真田氏菩提所である長谷寺の墓に埋葬されたことがわかっています。少なくとも真田氏は火葬だったんですね。
この横にゲートボール場があり、山の斜面にしてはフラットな場所があるなあ、と思ったのですが、そこは真田氏の居館跡だったんですね。ただ、そうすると、常福院はどの辺に建ってたの?、という疑問があります。こんな遺跡が残るくらいですから、それなりの規模だったのではないですかね? 常福院があったのならば、墓のすぐ横にお寺がある方というのが自然では?、と思うんですけどねえ?
日向畑遺跡
〒386-0012 長野県上田市真田町長角間8
安智羅神社御朱印
真田六社巡りの一つ、安智羅神社御朱印です。
現在では真田町から角間渓谷へと向かう登り口近くにあります。また後に紹介しますが、松尾古城麓です。松尾古城を守護する役割の神社です。真田氏の場合、城の周辺には必ず城を守護する神社があります。だいたい、お城には神社がつきものですよね。登り口は小さな立て札がひっそりと土手(?)に立っているだけなので、うっかり通り過ぎちゃうかも。
目印は日向畑遺跡で、遺跡の右側に建てられています。下の写真では左側にフェンスがありますが、この少し下にゲートボール場があり、その先に日向畑遺跡があります。
お社の中には安智羅神像があるはずですが、現在はご覧のように写真が奉納されています。この像は幸綱公の幼少時を象ったものとか、信繁公の幼少期だとか言われているようですが、年代から言って、信繁公である可能性は低いと思います。年代から言って、信繁公はまだ生まれていない可能性が高く、幸綱(幸隆)公をモデルにした神像であると思われます。
皇大神社御朱印
本日は真田町にある真田氏関連の神社をば。御朱印は山家神社でいただきます。
皇大神社は真田町にあった真田屋敷跡に建つ神社です。跡地はゲートボール場に利用されていますが、敷地には塀(堀)の跡などが今でもはっきりとわかります。城としては松尾城(真田本城)の時代ですが、城に住んでいたのではなく、普段、居住していたのはこっちの屋敷で、いざというときなどに山上の松尾城を利用していたようです。正確な使い分けはわかりませんが、岩櫃城も麓に居館跡があって、やはり普段は居館で生活していたようです。真田町にある真田氏城跡はだいたい行きましたが、どれも険しい山城で、毎回へとへとになります。当時はもうちょっと整備されていたと思いますが、何にしても普段使いとしては不便でしょうねえ。
御祭神は天照大神、相殿が豊受大神。昌幸公が松尾城から砥石城へと移転する際、居館跡を伊勢神宮から天照大神の御分霊を奉斉したようです。
建物(屋根上)が周辺の神社と異なり、特有の堅魚木や千木からいかにも伊勢神宮系統を伺わせますね。皇大神社という名称からも御祭神が天照大神であることがすぐにわかります。鳥居も神明鳥居です。
ただ、参拝者に向かって屋根の瓦が流れている向きから祀られているのが天津神であること、堅魚木の本数(偶数)から女性神であることを示していますので、御祭神が天照大神であることと一致しますが、千木が外削ぎになっているんですよねえ? 写真では見にくいですが。女神である天照大神を祀っているのなら、千木は内削ぎになると思うんですけど・・・?
それから、天照大神をお祭りしている神社は「皇大神社」、「神明神社」、「天祖神社」などの名称で呼ばれますが、皇大神社は普通は「こうたいじんじゃ」と呼ぶはずです。案内板が正しければ、こうだいじんじゃというとうに、"大"を"だい"と濁って呼ぶようです。この辺、どなたかご存じの方はいらっしゃいませんかね?
長野県上田市真田町本原2964番地
最近の真田ゆかりの神社・お寺巡りに関して
今日は先日訪れたとあるお寺でご住職とお話ししたことを。
やはり、大河ドラマ「真田丸」の影響はすごいようで、特に「真田丸」のドラマ終了後に放送される『真田丸紀行』は放送された回の内容に関連した施設が簡潔に紹介されています。真田関連として誰もが知っていそうなメジャーな施設から、普段は観光客など訪れない、その地域のお寺などかなり広範囲に網羅されています。前者の場合、ある程度、観光客を受け入れるような、いわゆる『観光寺』は、多数の観光客の受け入れ体勢があるので、テレビに出ていたという程度の認識で訪れてもそう問題ないでしょうが、一般のお寺は観光施設ではなく、宗教施設です。当たり前のことですけど、どうもそういう区別がなくなっているような気がします。特に『真田丸紀行』で放送されると、そこが観光施設と勘違いされてしまうのでしょう。
しかし、ソコはれっきとした宗教施設。訪れるならば、そのルールやマナー、エチケットを遵守しなければなりません。当たり前ですが、貼ってある注意書きはそれこそ注意深く読んで守る必要があります。例えば、撮影禁止のところは控える、当たり前ですがこんなことができていない客が多いのです。聞いたところによると、若い人よりも年配の方の方が不作法だとか。あんまりひどいと拝観禁止!、なんてことになるやもしれません。
拝観および御朱印をいただく場合のマナーですが、僕が思うところとして、
- 訪問時間は朝8時(冬は9時頃)から夜は17時(冬は16時)くらいまで。
- 朝食(7時台か)、昼食時は避ける。
- おつとめ時間(6~7時、11時半~13時頃)は避ける。
- 法事など、他の行事が行われている場合は避ける。
- まず、本殿および本堂にてご本尊様に手を合わせお参りする。
- 維持管理にも費用が掛かっている。必ずお賽銭を上げる。
といったところでしょうか。これはあくまで僕が思うところで、それぞれの施設にルールがあると思います。まあでも、上記のことを守っていたらまず問題ないと思いますよ。観光向きではないお寺の場合、本堂が施錠されていることが多いので、本堂前で手を合わせた後、寺務所にて御朱印をお願いするとき、できれば直接ご本尊に手を合わせたい旨、申し上げると、だいたい快く鍵を開けてくれます。留守居の方ですと、断られることもあります。ボクはこのときにご住職や宮司さんといろいろとお話しさせていただくことが多く、珍しいお話、ソコでしか聞けないようなお話を聞かせていただくことが けっこう多いですね。宗教家であるためでしょうか、お話好きな方が多く、ボクのように真田好きだとわかると、真田氏ゆかりのお話をしてくださいます。あまり時間を気にせずにゆっくりとお話を伺いましょう。だいたい、30分~1時間くらいを見ておく方がいいようです。普段からそれほど頻繁に御朱印をなさっておられないお寺ではどうしても時間が掛かってしまいます。急がせるような行為は厳禁です。
ちょっとぐだぐだと偉そうに書くのはこれくらいにして、ボクが最初に購入した御朱印帳をご紹介します。
安居神社のオリジナルではなく、一般的な御朱印帳のようです。それまで、御朱印集めはしていなかったのですが、真田氏関連の場所を訪問していると、ゆかりのある神社やお寺であることが多く、それならば、訪問した証に御朱印をいただこう!、とふいに安居神社を訪問しているときに思い立ちました。安居神社の宮司さんに伺うと、これでよければ、と見せていただいたのがこの御朱印帳。この頃は御朱印帳はお守りのように各神社に専用(神社名や神紋など入っている)のものがあると思い込んでいました。大きなお寺や神社はあるんでしょうけどね。このころはまだ真田丸ブーム前で、安居神社もボク以外誰もいなくてひっそりとしていました。今ではひっきりなしに人が訪れていますし、これから大坂夏の陣が放送されると一段と多くの人が訪れるでしょう。安居神社の御朱印帳もできるかもしれませんね。ともあれ、この御朱印帳が真田氏御朱印集めの起点となりました。跡で調べてわかったのですが、この時点では、真田氏関連の御朱印帳は上田城の眞田神社と松代の長國寺の2種類だけでした。山家神社にもありましたが、こちらは汎用(?)のものに六文銭の入った印が押された短冊が表紙に貼っている御朱印帳でした。「真田丸」効果で、今ではたくさんの御朱印帳が販売されています。あんまりいろいろ出されると買い集めるのが大変なので、善し悪しですね。
それにしても、一地方の国人衆がちょっとグレードアップしたクラスの武将が日本各地の神社や寺に縁があるというのはそれだけ人気があったという証ですかね。
デザインフェスタ44に行ってきました。
本日と明日(2016.11.26(Sat)~27(Sun))はアートイベント・デザインフェスタ44が東京ビックサイトで開かれています。年に数回開かれているイベントですが、毎回非常に盛況です。ボクはフェスタに参加されている御歌頭(おかず)さんの墨絵目当てにフェスタの度に足を運んでいます。
御歌頭さんのサイト 墨絵師 御歌頭 Sumi-E Artist OKAZU
墨絵というと墨の濃淡を使った水墨画を思い出しますが、御歌頭さんのは濃淡を使わず、筆目などを使って迫力ある絵に仕上げられています。
こんなのもw 最強(最凶?)のかぼちゃですw
本命はこっち。すでに売約済みでした。むむむ、狙いは一緒か。御歌頭さんの描かれる真田信繁(この場合、幸村という方が合っているかな?)はすごく格好いいんです。
で、実際に購入したのはこっち。B4サイズです。
少し小さめですが、迫力は十分です。ポストカードも売っておられますが、やはり原画の方が墨の盛り上がりも見て取れてかっちょいいですよ!
実はすでに何点か購入していますので、そっちもおいおい紹介します。
長谷寺御朱印
今回は真田町の長谷寺御朱印です。
長谷寺は真田町の真田家菩提寺で、幸綱公が上州(安中市)の長源寺から伝為晃運和尚を招いて建立しました。真田山種月院長谷寺です。宗派は曹洞宗、ご本尊は釈迦牟尼仏坐像です。
参道から石門を見たところ。桜の時期はしだれ桜が圧巻です。
石門にもちゃんと六文銭があります。
石門をくぐると本堂が見えてきます。周囲の木々はしだれ桜。
ちゃんと屋根にも六文銭。本堂前の香炉にも六文銭。鐘楼の屋根にも六文銭。さすが真田家の菩提寺です。
本堂に向かって右側に真田家墓所入り口があります。
渡り廊下の下の通路をくぐると、
裏手の墓地に続く階段が見えてきます。
この階段を上り切ったところ(50mくらいかな?)に真田家の墓所があります。
墓所に上がると、五輪塔が三基並んでいます。正面が幸綱公、右側が昌幸公、左側が幸綱公の奥方です。
すぐ近くに信繁公の供養塔がありました。真新しいのでつい最近建立されたようです。
真田山種月院長谷寺
〒386-2201
長野県上田市真田町長4646番地
山家神社御朱印
昨日は山家神社の新嘗祭特別御朱印をご紹介しましたので、本家本元の山家神社御朱印をアップします。
山家神社は真田氏が小県の真田町で勢力を増してくる以前から、当地で信仰されていた由緒ある神社です。右側のリンクの欄に山家神社のツイッターがあります。山家神社の宮司さんがツイートなさっています。創立は不明ですが、平成30年に四阿山開山1300年を迎えるということですから、少なくとも創立以来1300年は経過していることになるわけです。いかに真田で古くから信仰されていたかが伺えますね。
山家神社の鳥居は両部鳥居という独特の形状の鳥居です。このタイプの鳥居で最も有名なのが厳島神社の海中に建っている大鳥居です。名前が示すように、両部神道を示す鳥居です。両部神道は真言宗による神仏習合思想のことで、山家神社の境内には白山寺というお寺があったことから、このような鳥居となったのでしょう。
神社の参道中央は神様がお通りになるところなので、歩かないように避けなければなりません。上の写真中央に小さな石橋がありますが、これは人が通る橋ではないのです。喜んで渡っている人がいましたが………。アホか!!
鎮守の森の中にひっそり建つお社。いやあ、威厳と気品がありますね!
御祭神は大国主神、伊邪那美神、菊理媛神で、相殿神として日本武尊、神八井耳神が祀られています。神紋は三つ巴、六文銭(六連銭、真田銭とも)、五三桐、永楽銭。屋根の中央に六文銭が光っています。
幕にも六文銭。六文銭は真田幸綱公が初めて使った家紋ですから、この紋のあるところは何かしら真田氏と関係があるということになります。